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“忘れ残りの記”または古家あるじの“譫言(うわごと)” 4 [古家あるじの“譫言(うわごと)”]

Ⅲ 「最初の民家指定」にまつわる聞き覚えのエピソード―
 

 昭和20年代の主屋復元修理最中に、今の文化庁、当時の文化財保護委員会の主任調査官が時々来訪された。その時宿舎での雑談として聞いた「最初の民家指定」にまつわる挿話も忘れ難いエピソードのひとつである。

 候補に上がったわが家の指定について、当初、客座敷の室内意匠の美術工芸品的価値を高く評価して、客室棟だけ指定してはとの案がベテラン技官の方から出たのに対し、若手技官たちから、民家の指定は神社仏閣などとは全く違った観点から考えられるべきであり、理想を言えば一つの集落の建物全部、一歩譲っても一軒の家屋敷の建物全部を指定するべきだとの反論が出たそうである。最終的に歩み寄った結果が居住棟をも含めた主屋全体の指定だったという。聞いたその事実よりも嬉しかったのは、太平洋戦争開幕前夜という全体主義、挙国一致、などのスローガンが叫ばれた頃に、文部省内では若手も自由に意見を言える雰囲気が生きていたのか、という思いだった。またそのエピソードは、明治以来の文化財保護行政の在り方に対して“コペルニクス的転換”がなされたことをも示しているのではないか、などと勝手な想像を巡らしたりしたものであった。

 その反面、中国大陸での戦乱が拡大して太平洋戦争の泥沼に陥るきっかけの時が最初の民家指定の前月、昭和12年の7月であり、次に小川家(京都市)が指定されたのは昭和19年、敗戦の前年だったことと思い合わせて、民家の指定には常に重苦しい現実が付きまとってきたのか、などと暗く重苦しい感想を抱いたものでもあったが、あの暗い戦乱の時代にも、文化・文化財への施策は脈々と続けられていたことの証明でもあることを思えば、なかなかに意義深いこととして受け止めるべきだとも言えよう。いずれもまた、忘れ難い回想の一齣ではあるが、しかしまた、住まいがそのまま文化財に指定されることは、取りも直さず両刃の剣に等しく、所有者とその家族に物心両面での大きな負担を強いる結果となって行くこともまた、たしかな事実ではある。もっとも、最初の指定当時、幼かった私には全く関わりのない事柄ではあったのだが。